湊川隧道とは

About

湊川隧道。それは、人の暮らしを守るものづくりの夢。

私たち人類の祖先が大地から手を離して二足歩行となり、
その手に道具を持ち、何かを作り始めてから、いったいどれくらいの時が流れ
その悠久の時の流れの中で、いったいどれくらいの物が創られ
今日に至るまで、いったいどれくらいの躍動を得て進歩発展を果たしてきたことでしょう。
いつの日も、人は、常に生きる時代と向き合い
その時々の先進の技術を駆使して構造物をつくり文明社会を築いてきました。
古代における古墳の築造やピラミッド建設、
寺院に神殿、城市、家、道路、堤防、橋梁、港湾、鉄道、上下水道、河川。
そのすべては、人々の暮らしに安心と安全をもたらせんとする想い、
日々の営みを支え、幸せや繁栄を未来につながんとする、力強い想いがあればこそなせるもの。
近代化へと駆け抜ける明治日本、
その神戸の歴史的大規模の土木工事となった湊川の付け替え、そして日本初の河川トンネルとなった湊川隧道の誕生も
その時、その時代と真っ向から向き合った人々が取り組んだものづくりの物語。
100年先を夢見て全力で放り投げらてた想いのバトンが描く軌跡のひとつなのです。
そうして、次の100年先へと。
私たちはどんな想いをつないでゆくことができるのでしょうか。

MINATOGAWA ZUIDOHISTORY

川と人、暮らしと営みの歴史

流域面積35km、延長12km。兵庫県神戸市を流れる現在の湊川は、再度山北麓に発した天王谷川が菊水橋の上流で石井川と合流した所をスタート地点に、そしてすぐ下流の洗心橋付近でその流れを西寄りに変え、会下山の下をトンネルで抜けて長田区の北部を流れてきた苅藻川と合流して大阪湾に注ぎます。

六甲山系の急峻な山から湧いた水が川の流れとなり、扇状地から平野をくだって海に注ぐ、のたうつように流路が定まらないもともとの湊川は、この流域に暮らす人々の知恵と努力によって何度も手が入り、治水の工夫がなされて近代に至り、そうして明治30年(1897年)、神戸における明治の大土木工事といわれる「湊川の付け替え」が行われて現在の形となりました。

付け替えがなされる以前、明治の半ば頃までの湊川は、石井川と天王谷川との合流点から南東方向へ、つまり現在の湊川公園を経て新開地を通り、市街地の中心部を貫いて流れ、普段は流れる水も少なく穏やかな佇まいを見せる川でしたが、ひとたび大雨が降ると下流の市街地では短時間で水位が上昇するため、過去に何度も大きな水害が発生し、大きな被害がもたらされてきました。

当時の湊川は上流から押し流された土砂により、堤防の高さが6mにもなる天井川になっており洪水の危険性が非常に高く、その上、この堤防によって神戸と兵庫の町が分断されていて、交通や流通はもとより経済障害となっていました。

また、湊川から流出する大量の土砂が海に流れ込むことによって神戸港の機能が低下することを防ぐ必要も指摘され、明治当初から付け替えの議論がおこなわれていましたが、あまりにも規模の大きな工事になるため容易に実行されませんでした。

ところが、そんな改修の議論が高まる明治29年(1896年)8月。台風による猛雨によって湊川の堤防が100mにわたり決壊し、福原町、仲町などに濁流が押し寄せ、死者38名、負傷者57名を出す惨事となり、多数の家屋も流失・浸水するなどの大きな被害となりました。
結果、この大災害がきっかけとなり、「災害対策が神戸市目下の急務」と報じられ、世論の盛り上がりととともに改修工事の具体化が急速に進むこととなります。

水害が発生した翌年の明治30年(1897年)5月。大阪の豪商、藤田伝三郎や小曽根喜一郎、大倉喜八郎などの実業家らが発起人となって「湊川改修株式会社」が設立され、湊川の改修工事はいよいよ動き始めます。

明治の大土木工事、日本初の河川トンネル

当初、予定されていた改修計画は、洗心橋の上手で湊川を締め切り、そこから新湊川を開削して、会下山の南側に新しい川を掘り進む計画となっていましたが、兵庫の住民の間から「川床の高い湊川を持ってこられては、今以上に危険な状態になる。」という要望が強く寄せられたため、会下山の下にトンネルを通す案に修正されました。そうして西へと向かう湊川の流路は長田神社八雲橋下手で苅藻川と合流、ここより下流は苅藻川の川幅を広げて東池尻の海岸へ注ぐこととなります。

湊川隧道は近代土木技術を用いた日本最初の河川トンネルとして誕生し、大いに活躍します。そうして築造からちょうど100年目となる平成12年(2000年)にその役割を終えた湊川隧道は、系譜的価値、技術的価値、意匠的価値について高い評価がなされ、連絡通路や照明設備の設置など、新たな展開に向け、保存と活用のための整備がおこなわれています。

工事中の下流側坑門

全長600m、幅7.3m、高さ7.7m。日本初の河川トンネルである湊川隧道は「会下山隧道」「会下山-トンネル」とも呼ばれていましたが、阪神淡路大震災後の復旧工事中に「湊川隧道」と記した銘板が確認されたことから、以降「湊川隧道」と呼ばれています。

湊川隧道竣工の様子

湊川隧道の施工は大倉土木組(現在の大成建設株式会社の前身)が請負い3年9ヶ月に及ぶ大工事の末に完成となりました。現在のような重機・機械がない当時の工事は、トロッコやモッコ、ノミやツルハシを使った人力による大変な作業でありました。

構造や材料、意匠と扁額に込められた想い。

湊川隧道の断面形状は馬蹄形になっており、側壁と天井のアーチが煉瓦造り、地山とトンネルの間には栗石が裏込め材として充填され、底の部分(インバート部)は、流れる水や土砂が川床を洗い流したり削ってしまったりすることを防ぐために、3、4段に積まれたレンガの上に花崗岩の切り石が並べられるなど、河川トンネルとしての機能が損なわれることのないよう、構造や材料にさまざまな工夫が施され、効果的な洗掘摩耗対策がとられています。
また、湊川隧道の坑口は、呑口(上流側)が古典様式、吐口(下流側)はゴシック様式と、異なった二種類のデザイン様式を採用しており、大変凝った造りとなっています。
トンネル建設の記念碑とも言える扁額(坑口の上部に懸ける長方形の額)は、当時の陸軍大将、小松宮彰仁元帥の揮毫によるもので、吐口部に「天長地久」、呑口部に「湊川」と記され、トンネルの効用を願うとともに、大変な難工事を克服した 喜びが表されています。「天長地久」の言葉は中国の古典である「老子」の中に見られ、大地の悠久の営みに対する畏怖の念が込められています。

築造直後の下流側坑門

築造直後の上流側坑門

昭和30年代頃の下流側坑門

昭和49年頃の下流側坑門

昭和60年頃の下流側坑門

阪神淡路大震災と湊川隧道

平成7年(1995年)1月17日午前5時46分、淡路島北部を震源とするマグニチュード7.2の兵庫県南部地震、いわゆる阪神・淡路大震災により新湊川も護岸の一部が倒壊し多くの亀裂が発生するなど、大きな被害を受けました。また、湊川隧道も下流側坑門が崩壊し、隧道内部の一部で煉瓦の剥離、亀裂などが発生するに至りました。復旧にあたっては、周辺の地域が市街地として高度に利用されていることなどを考慮して、単に被災前の原型に復旧するだけではなく、河道断面積の拡大を図るほか、安全で快適な水辺空間の整備もあわせておこなう「河川災害復旧助成事業」による改良復旧工事が行なわれることになりました。

その役目は新湊川トンネル

1901年に完成した湊川隧道は、新湊川トンネルの建設により、2000年12月、約100年に渡る河川トンネルとしての役目を終えました。新湊川トンネルの坑門には、再び湊川隧道の扁額が掲げられています。坑門の復旧にあたっては、呑口坑門は昭和初期の増築時のイメージを、吐口坑門は明治期の完成当時のイメージをデザインし、先人の遺業を後世に伝えています。

新湊川隧道トンネル工事中の湊川隧道

新湊川トンネルの下流側坑門

MINATOGAWA ZUIDOOUTLINE

新湊川トンネル

延 長
683.2m
既設拡大区間:97.2m
バイパス区間:491.0m
開削区間:95.0m
掘削断面積 約144㎡
内空断面積 約105㎡
計画流量 約260㎡/sec
縦断勾配 1/303
最小曲線半径 約144㎡

湊川隧道(会下山トンネル)

竣 工 明治34年8月
構 造 アーチ部・側壁部:レンガ積み
インバート部:切石積み
増築部は鉄筋コンクリート造
延 長 L=604m(増築後670m)
断面規模 内 空 幅:B≒7.3m
内 空 高:H≒7.6m
内空断面積:A≒45㎡
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