明治期の三大土木事業
都市発展の礎を築いた
三つの挑戦
一八六八年の神戸開港後、
神戸のまちには多くの人や物が集まるようになり、
急速な発展を遂げていきました。
しかし、まちの成長を支えていくためには、
生活に欠かせないインフラを整備することが
急務となっていきます。
そこで行われたのが、
安全な飲み水を市内に届ける水道事業、
この地域での航海の安全性を高めるための運河事業、
そして、天井川で深刻な洪水被害をもたらし、
兵庫と神戸のまちを分断していた
湊川の付け替えを行う河川事業でした。
明治期に神戸で行われた三つの大規模な土木事業は、
国際港湾都市として発展していくための礎となり、
現在も残るこれら施設は「三大土木遺産」として、
当時の姿を今に伝えています。
- 水道事業
- Waterworks

Water Works
都市の命を潤す、明治の水源革命
明治時代、神戸港の開港により人口が急増し、多くの水が必要となりました。当時の飲み水は主に井戸水を使用していたため、コレラなど感染症流行の一因ともなっていたことから、安全で衛生的な水道施設が求められるようになり、1900年には、日本で7番目となる近代水道として市内への給水が開始されました。1905年には烏原立ヶ畑堰堤が建設され、神戸の発展や人々の暮らしを支えてきました。
烏原貯水池 立ヶ畑堰堤
- 神戸の命を守る、美しきアーチの礎。
- 1905年に竣工した曲線重力式粗石モルタル積ダムで、日本最古級の重力式コンクリートダムです。また、右岸側の護岸にずらりと並ぶ石臼は、かつてこの地にあった烏原村で特産品だった線香の粉を作るために使用されていたものです。 現在、貯水池周辺は「水と森の回遊路」として整備されており、地域の方からも親しまれています。

- 運河事業
- Canal Project

Canal Project
提供:神戸市文学館
海の難所を、産業の大動脈へ。
奈良時代以降、兵庫津の一帯は、古くからの良港である兵庫港を中心に栄えてきました。しかし、外海に突き出した和田岬周辺は潮流と風が強く、避難できる入り江も乏しいため、古くから「船の難所」として、度々深刻な被害を引き起こしていました。こうした航海上のリスクを減らし、兵庫港と周辺海域をより安全かつ効率的に繋ぐため、まず船舶の避難場・荷揚場・波止場を兼ねた水路として新川運河が整備され、その後、和田岬を迂回するバイパスとして兵庫運河が開削されました。これにより船の事故は大きく減少し、貿易や物流の効率も向上しました。さらに時代が進むと、運河は貯木場として利用されましたが、その後貯木場としての役目も終え、今は市民が散策や水辺の景観を楽しめる空間と姿を変えています。
兵庫運河
- 港と工業都市をつなぐ、
水の大動脈。 - 1899年に駒ヶ林の魚問屋・八尾善四郎の尽力によって完成しました。新川運河、兵庫運河(本線)、兵庫運河支線、苅藻島運河、新湊川運河によって構成されており、水面積約24haの日本最大級規模の運河です。現在は、運河沿いに「兵庫運河プロムナード」が整備されて市民の憩いの場となっています。また、干潟の創出やアマモの移植が行われるなど、環境学習の場としても活用されています。

- 河川事業
- Minatogawa Project

Minatogawa
Project
- 川を変えて、街を守る革新。
- 明治期の神戸は神戸港開港に伴う人口増加で発展していました。しかし、天井川となっていた湊川が兵庫と神戸を分断し、東西交通の妨げになっていたほか、六甲山から流れ出す土砂が神戸港を埋める問題や、洪水や氾濫からまちを守る必要もあり、湊川の付け替えが行われます。
付け替え後は兵庫と神戸のまちが円滑に行き来できるようになり、川の跡地は劇場がずらりと並ぶ一大歓楽街「湊川新開地」となり神戸の発展に大きく寄与しました。

現在の湊川隧道入口